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録音という伝達、記録手段がなかった昔、楽譜はとても便利なものでした。(たぶん)
今はバンドなんかですと楽譜より音源でやり取りすることの方が多いですよね。
クラシックでは今でも楽譜を重視しますが、それは昔の作曲家の作品が楽譜のみで残っていることが大きい理由です。
じゃ新作は?
録音技術も発達し、コンピューターを屈指して色々できる今日この頃、あえてのアナログ!あえての楽譜!
その理由を(伝統とか歴史ってのは一旦置いておいて)考えてみたいと思います。
目次
楽譜ってなんだ?
みなさんは楽譜に対してどのようなイメージを持っていますか?
脚本?設計図?宇宙?楽譜は楽譜だろ?…
どれも正解だと思います。
ただ、いずれにしても読むためには勉強が必要になってきそうなのは共通するところでしょう。
日本語がわからないと日本語で書いてある小説は読めませんからね。
日本人の感性が分かるとさらに行間が読めてきたり、とか、
楽譜もそのようなものだと思ってください。
そうなってくると、目に見えない音楽を記録して伝達する手段としてはあまりにも不正確なものであるのが分かると思います。
正解の料理を見せずにレシピのみで作ってもらう番組あったよね
レシピ通りに料理してみたけど正解がわからん、味こんなもんでいいのか?
てかヒタヒタってな〜に?
自分の耳たぶって標準的なやわらかさなのか?
なんてことありません?
…とはちょっと違うかもしれませんが、とりあえず10人が10人とも同じものになるとは限らないということです。
そして10人に一人はレシピにない怪しいアレンジを加えたりするでしょう。
その辺りはクラシックの同じ曲を演奏家違いで数曲聴き比べてみればすぐに分かりますよね。
同じ楽譜弾いてるはずなのにこんなに違うものか〜って実感できると思います。
再現音楽ではない
そこから分かることは、
「クラシックは再現音楽ではない」
ということです。
「演奏家の仕事は作曲家の意図を汲み取って正確に曲を再現すること」ではなく、
「作曲家が書いた楽譜からインスピレーションを受けて自己を表現すること」と言えるでしょう。
コピーではなくカヴァーに近いかもしれません。
聴衆はもとより、演奏家本人ですら、結局は誰もアーティストに完コピなんて求めていないのです。
現代における楽譜の意義
そう考えると現在における楽譜の役割が見えてくるのではないでしょうか。
録音にしても打ち込みにしても、さらにはクラウド技術を用いたリアルタイムなセッションなど、これだけ細かく伝える手段がある中、あえて新作を楽譜で発表するという意義、
それはやはり「正解が分からないことによる自由な可能性」に他ならないでしょう。
ご本人演奏がある場合など、アーティストは本能的に同じものを避ける習性があります。
そうなるとすでにご本人演奏以外という無意識の制限がつき、自由な可能性が損なわれてしまいます。
しかし、楽譜であれば正解が分かり得ないので、研究や勉強により培ってきた妄想力を遺憾なく発揮できます。
演奏する人、または同じ人でも演奏するたびに違う音楽になる行間の可能性こそが楽譜の長所である、と私は思います。
図形楽譜なんかは録音技術の発展に対する楽譜の役割の変化の象徴的な存在なのかもしれません。
楽譜とクラシック音楽の魅力
しつこいようですが、楽譜というのは正確に音楽を記述することはできません。
これを伝達手段にするには「ごじゃっペ」がサクッと分かるくらい細い共通認識が必要だからです。(昔は狭いコミュニティでの話だったからこれでも十分だった)
「こう書いたらこうやってくれるだろう」という共通認識が通用しなくなる(現代の楽譜に近づく)につれ、楽譜の書き込みが多くなるのはそういう理由です。
そういえば、「いろはにほへと」なころの日本語は今よりもたくさん母音があった、なんて研究もされているようです。
正解はタイムスリップしないとわかりませんが、非常にロマンがあるテーマですよね。
私的には、クラシック音楽もそれと同じように正解が分かりえないからこそ面白い系のものだと思います。
というわけで、楽譜というのは自由な表現の余白、行間こそに魅力があるもので、解釈や感性のギャップを楽しむためのツールと捉えることができるのではないでしょうか。
誰かが演奏しないと音楽を奏でられないながらも一つの完成された作品である楽器のように、楽譜自体も一つの完成された作品と言えるのかもしれませんね。
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